噛み合わない議論の生産性 池田氏のチョムスキー叩き叩き叩き叩きについて

これ(引用者注:3つ目の引用部)を最低の逃げとしてめちゃくちゃに叩いてる。なんで? ここで言ってること自体は別に至極まっとうじゃないの。 そうじゃなくて、この議論の問題は、ここでもまた議論が噛み合っていない事。

よくわかりません

私の答えは、『まっとうじゃないと思う』です。むしろ、1つめは枕程度に取り上げただけで、どうでもいいのです。

(略)

この手の文章は、各論と総論の間に飛躍があります。だから、各論には無難なことしか書いておらず、間違っていないように見える場合は非常に批判しにくい。池田氏の文章は多くがこのパターンのように思えます。非常に論争的な文章です。読み手としては得るものが少ない。


で、私がこの文章を見て思うのは、『本当に、経済学=新古典派で、一見エレガントな理論に自足しているの?』です。そういう批判ですよね、これ。どうまっとうなのか。ドン・キホーテ的に、いもしない敵を批判するポーズをとって自己正当化しているだけじゃないのか、と。

(略)

私が怪しんでいるのは、池田氏の言う『複雑性そのものにちゃんと取り組む』というのを具体的に書くと、クルーグマンの言うアホダラ経になるのではと言うことです。

廃星blog:叩かれる側に

元のエントリの趣旨がそういう事だったとは。それが事実なら、その文章からそれを読み取るのは、自分の脳味噌にはちと酷過ぎたようだ。その意味で、元のエントリに対する自分の反論的エントリは、自分の誤読と言っていい。


誤読と言えば、対山形氏の生産性論争?での池田氏の自爆だ。この議論は言説的に生産的ではなかった*1。だが、それをして「誤読による反論的言説は言説的に生産性がない」と一般化できるとは思わない。


自分の「反論」は、曲りなりにも一応、ひとつの「見方」を提示したつもりでいる。その内容が陳腐・今更・自明・低レベルの、モノを考え始めた小中学生でも役に立つか怪しいモノであっても、塵のようなモノであっても、生産は生産。もっと才能ある人ならもっとその絶対値が高い「誤読による反論」を書けるだろう。そこに誤読があっても。


元ネタにない新たな何かを提示する事が、議論の言説の生産だと思う。相手憎しでアクセルベタ踏みだと、その辺が眼中から外れやすいのではないか。そういう観点で言って、元のエントリは生産的とは言い難いと思うし、趣旨説明の方は 色々出てきて生産的だと思う。絶対値的にはこれよりずっと。

*1:これによってギャラリーに経済学への興味が喚起されたとかはあるだろうが、言説自体の中身として