茂木健一郎氏をdisってみる。
確かに fashionable だ。しかし私としては、例えばヤリイカを飼うためだけに五年間苦悩し続けた松本元の方こそ本物に思えてならない。少なくとも池谷裕二を読んだ時に感じた、「科学の現場を作る人」という印象を茂木健一郎から受ける事はなかった。
404 Blog Not Found:書評 - フューチャリスト宣言
激しく同感。おしゃれで頭良さそうだけど、全然現場の臭いがしない。確かに論文は書いてはいるものの、それが信じられないくらい、表だって言うことはそれとは全く乖離した綺麗事ばかり。
ワイドショーで無責任な口腔経由排泄してるコメンテータ達と変わらない。特色づけているのは「カシコカッコイイ」ポジションを維持してるだけ。
思い出されるのは、「心理学者」の富田隆氏だ。確かに心理学者ではあるが、その肩書きを利用してマスコミに露出して、自身の研究とは全く乖離した、それどころか心理学的にまったくのトンデモを心理学的裏付けがあるかのように撒き散らす。ただでも誤解されやすい心理学を、心理学者自身が滅茶苦茶にしている。
学生の頃読んだ松本さんの本はから、脳科学に真摯に打ち込む研究者の姿がかいま見えた。訃報を聞いて大きなため息を漏らしたのを覚えている。
将来、茂木氏の訃報を聞いたとき、自分はどう思うだろうか。
…まあこの位じゃ
「ああ、かわいそうになあ。この人がもしボクとリアルに会ってしまったら、徹底的にやりこめられるだろうなあ」と想像して、にやにや、しんみりして
茂木健一郎 クオリア日記: 火山爆発
もらえないだろうけど。
「Googleに言語の力の序列を訊いてみた」のおまけ
- COBOLなどの検索元自然言語比較(下の表)を見ると、やはり、日本はレガシーが特異的に多く残っているんだろうか。
- Java,COBOLでの検索元地域比較をみると、インドはガチで「今」の商売言語に取り組んでるという事だろうか。
- Haskellなどでの地域比較をみると、ジャマイカは、際物言語の双璧(?)で一発逆転を狙って居るんだろうか。
Emacsのhaskell-modeでGHCi使用時にC-c C-rで編集中ソースのバッファに居続けるパッチ
EmacsのHaskell Modeでは、C-c C-rすると、GHCiのバッファにカーソルが移ってソースをGHCiでリロードする。その場ですぐ色々試したい場合はそのままでいいけど、自分はこまめにエラーチェックのつもりでC-c C-rするので、カーソルはソースバッファに戻って欲しい。パッチというほどの修正じゃないけど。
--- haskell-ghci.el~ 2007-04-10 01:38:18.953125000 +0900 +++ haskell-ghci.el 2007-04-10 01:45:59.109375000 +0900 @@ -271,6 +271,7 @@ (save-excursion (haskell-ghci-go cmd cd)) ;; Show *ghci* buffer. + (let ((haskell-file-buffer (current-buffer))) (pop-to-buffer haskell-ghci-process-buffer) (goto-char haskell-ghci-load-end) @@ -279,13 +280,14 @@ "^Ok, modules loaded" nil t) (progn (goto-char (point-max)) (recenter 2) - (message "There were no errors.")) + (message "There were no errors.") + (pop-to-buffer haskell-file-buffer)) ;; Something went wrong. If possible, be helpful and pinpoint the ;; first error in the file whilst leaving the error visible in the ;; *ghci* buffer. (goto-char haskell-ghci-load-end) - (haskell-ghci-locate-next-error))) + (haskell-ghci-locate-next-error)))) (defun haskell-ghci-locate-next-error ()
※patchコマンドでは-lしてください。
Emacsのhaskell-modeでGHCi使用時にエラー行だけじゃなくエラー箇所に飛ぶパッチ
Haskell Modeでは、C-c C-rやC-c C-nでエラーの行に飛んでくれるけど、どうせなら行頭でなくてエラーの桁まで飛んで欲しい。パッチというほどの修正じゃないけど。
--- haskell-ghci.el.orig 2006-05-18 07:03:25.000000000 +0900 +++ haskell-ghci.el 2007-04-07 11:47:50.203125000 +0900 @@ -295,20 +295,24 @@ (progn (pop-to-buffer haskell-ghci-process-buffer) (goto-char haskell-ghci-error-pos) (if (re-search-forward - "^[^\/]*\\([^:\n]+\\):\\([0-9]+\\)" nil t) + "^[^\/]*\\([^:\n]+\\):\\([0-9]+\\):\\([0-9]+\\)" nil t) (let ((efile (buffer-substring (match-beginning 1) (match-end 1))) (eline (string-to-int (buffer-substring (match-beginning 2) - (match-end 2))))) - + (match-end 2)))) + (ecol (string-to-int + (buffer-substring (match-beginning 3) + (match-end 3))))) + (recenter 2) (setq haskell-ghci-error-pos (point)) - (message "GHCi error on line %d of %s." - eline (file-name-nondirectory efile)) + (message "GHCi error on line %d, column %d of %s." + eline ecol (file-name-nondirectory efile)) (if (file-exists-p efile) (progn (find-file-other-window efile) (goto-line eline) + (move-to-column ecol) (recenter)))) ;; We got an error without a file and line number, so put the
これは、GHCiのエラーメッセージが
/tmp/Hoge.hs:1:9: Not a constructor: `forall'
のように、桁(この場合9)まで出る前提だけど、ほんとにいつも出るんでしょうかね。
※元ファイルのインデントにタブがあったのがスペースになってるので、patchコマンドでは-lしてください。
3DのGUIがギミックの壁を越えられない理由と突破口
たしかにスゲー!。感覚は面白い。
これを使えば関連あるファイルを積み重ねていったり、今作業中のものは目立つところに配置したりといったことができる。
あたかも本当の机で書類をあちらこちらに動かしているような感覚だ。
本物の机の上で作業するような感覚が味わえる『BumpTop』 | 100SHIKI
しかし、ちょっと想像してみると、これは、便利さ・効率の面ではNGだろう。例えば、PCの中のファイルが全部紙になって机に置かれる状況は悪夢だ。
これに限らず、3DのUIで、スゲー!面白れぇ!ってのはあっても、実用にしたい!と思わせるものは見た記憶がない。これは落ち着いて考えてみれば当たり前だ。
人間は、目で画面を見て作業する。PCでなくても、目で対象を見て作業する。物理的作業をするときはともかく、デスクワークをするときは対象を正対してそれを見て作業する。つまり、作業するときの対象は基本的に2D。3Dで起こりえる、対象が正対せず変な角度だったり物陰に隠れる事は、作業の支障にしかならない。3Dである事のメリットは、空間の大きさが収納などに便利なだけ。
つまり、人間のデスクワークの基本はそもそも2D。3Dはおまけ。だから、GUIでも3Dはどうしてもおまけになってしまう。
で、どうするか。2Dに+する次元を現実の奥行きにマップするから、現実の 2D=主・3D=従 にはまってしまう。なにか他の量数にマップしてはどうだろうか。まったく直感と異なる世界になりそうだが、それは西垣通が「マルチメディア (岩波新書)」で言っていた「身体の再構築」(だったか?)って事で。
Second Lifeが抱かせた、言い様のない期待感の向こう
さすがユカタン、スバッと書いてくれた。思い出してみれば、SLが話題に出始めた頃、「Habitat*1が3Dになっただけじゃん?」とスルーしていた。しかし、あれよあれよという間にそれ系の誰もが認める寵児であるかの様になっていき、自分も最初の直感なんて忘れて、わざわざビデオカードを新調してまでプレイ(?)してみていた。
感想「…。」
まさに、
(3)までのハードルを乗り越え、やっと操作法を習得したとしても、今度は「何をしていいか分からない」という壁にぶち当たる。
Second Life“不”人気、7つの理由
この壁にぶち当たっていた。
そして、俺のやり込みが足りないのか?俺が悪いのか?みたいな気でいた。普段から普通のMMOもやらず、3Dモデリングどころかフォトショもやらない。アバター以前に、自分のファッションにも興味がない。そんな事に関係なく、もっと普遍的な何かがあるはずだ、という妄想に囚われていた。
アホだ。
人は、自分と反対の意見については問題点をバリバリ見付けるが、賛同する意見については非常に見逃しやすい、という事が実証されてるらしいが…。
CGMといっても、ブログならとりあえず誰でも何か書けるけど、3Dモデリングは敷居が高い。それに、架空世界内の造形やビジュアルに、人気ブログや人気動画以上の面白さを感じる人はそんなに多くはないんじゃないか。それらは気軽に数クリックで読んだり視聴できるわけで。ブログやSNSやチャットでも、コミュニケーションは楽しめる。Habitatも今でも名前を変えて存続してるらしい。
First Lifeは、楽しい事もつまらない事も全てひっくるめて、無限の豊穣さの中にある。単にもうひとつ別の世界があるだけじゃ、無限の計算パワーを持つ現実には勝てない。だから面白いとこだけ切り取って、あるいは捏造して、映画やテレビや本を作り、ブログを書き、ゲームを開発する。これらに勝てるだけの濃縮された世界が必要だ。ワクワクして最初にログインしたときに期待していたのは、現実を超越したエキサイティングな「社会」だ。
ユカタンの提案ももちろん重要だけど、もっと根本的に別の面白さを導入しないと、今の期待感に応えることは出来ないと思う。下手したら1年後には「ああ、あったねぇ」なんて事にもなりかねない。
3Dとリアルタイムな空間共有、ユーザによるモノ作り。これがSLの根本的な武器だ。ユーザが作れるのは結局ハリボテに過ぎない。これがただのガラクタの山になるのか、エキサイティングなもうひとつの人生のアクセサリになるのか。練り込んだゲームバランス設計で社会を発展させ何かを創発させるのか、あるいはもっと新たな武器で切り込むのか、この記事を読むまでの期待感を越える変貌を期待したい。